男爵は後悔した。なんできちんと筆洗い用のバケツを机の奥に置いておかなかったのだろうと。
こんなに机から落ちるギリギリのところに置いてしまったのだろうと。

昨日の晩、ふと絵のアイディアが思いついてしまった。忘れないうちにとデッサンを描き上げ、更に絵筆まで持ってしまった。おかげで空は真っ暗な夜中なのに、寝るのも忘れて仕上げてしまった。絵を描くことに集中していたせいで他のことにはまったく関心を払っていなかった。だから、すっかり夜が明けていたことも気づいていなかった。描きあげた後、よく洗わずにバケツの中に筆を突っ込んでしまっていたし、完成を喜び勢い良く伸びをしたときに腕をぶつけてバケツを後ろに盛大に飛ばしてしまったこともまあいいだろう。

だが、まさかバケツが飛んでいった先のドア開いたらどうだろう。
姉であるまめつが入室してきたらどうだろう。
とても女の子らしいとは思えない「ふごっ!」なんて悲鳴とともにまめつにバケツがダイレクトアタックしたらどうだろう。




「…………男爵」




疲労と眠気と目の前の状況に目の前が真っ白になった。






ある日の男爵の一日






我に返ると、男爵は家から遠く離れた公園まで走ってきていた。どうやら、あのドスのきいたまめつの声に恐怖し、謝罪も忘れて逃げてきたらしい。なんとも情けない。いや、あれはマジで怖かった。
温厚な姉があそこまで怒ったのは久々だ。前回はいったいどんな事だったか……いや、思い出すのはやめよう。覚えていない方がいいこともある。

男爵は昔のことを思い出すのをやめ、公園のベンチに座って現在の自分の状況を確認することにした。


1.絵を描きあげた。

2.腕にバケツをぶつけて後ろに飛ばしてしまった。

3.まめつにバケツ、そして中に入っていた絵の具色の水&ろくに洗っていない筆を思い切りかけてしまった。

4.まめつカラフルにずぶ濡れ。

5.謝罪を忘れて逃げ去る。




ど う し よ う 。






だがある意味逃げてきてよかったかもしれない。気が動転していたあのときの自分ではきっと謝罪よりも「筆が目に刺さらなくてよかったな!」とか「水も滴るいい女だな!」とかかなりどうでもいいことを発していただろうから。

おそらくまめつは、とっくに空が明るくなっていたのに朝食を食べにこない自分を呼びにきたのだと思われる。だが今の状況では朝食を食べに戻ることは無理だろう。ダブルで親切を思い切り蹴り飛ばしてしまった。本当に申し訳ない。
走り出した瞬間、眠気の頭でもそれを察したのだろう。自分のポケットには置いていたはずの財布がねじ込まれていた。この間タンスから紙幣を移したばかりだから、とりあえずお金に困るということはない。

ひとまず男爵は、すでに昼食になりかけている朝食をとるために、眠気は飛んだが疲労の残っている重い腰を上げて、街まで歩いていった。






街の出店で買ったサンドイッチをもそもそ食べ歩きながら、男爵はまめつへの謝罪の品を考えることにした。さすがに身一つで帰るのは遠慮したい。

やはりまめつの好物である「かにぱん」だろうか。いや、だめだ。彼女の部屋には確か多少の災害くらい耐え切れそうなくらいの量の「かにぱん」がストックされていたはずだ。以前ゴミ箱に捨てられていた「かにぱん」の袋を確かめてみたら、どうやらきちんと先入先出法で消費しているようだったし。
ここでたとえ「かにぱん」を買って帰ったとしても、彼女にとっては日常当たり前にある「かにぱん」が一つや二つ増えたところで謝罪の品になるわけがない。というわけで却下である。

髪留めはどうだろうか。……それも駄目だろう。彼女はあの赤いビーズの髪留めをとても気にっている。誰からかもらったらしい大切な髪留めを、自分のバケツダイレクトアタックの謝罪のためにはずさせるわけにもいかない。



他にもいくつか案は思い浮かんだ。だが、やはりどれもしっくりこなかった。サンドイッチの最後の一切れを飲み込んでからも相当な時間を悩んでいたらしい。気がつくともう日が傾き始めている。もうあきらめて身一つで帰り、自主的に床に額を擦り付けて謝罪をした後、食事抜きで全時間労働をしてまめつの機嫌が治まるまでおとなしくしようと思い始めたそのときだった。


男爵の視界に、あるものが映った。


それはとある店のショーウィンドーの中に展示されていた。
目の前に展示されているものを凝視し、男爵はこれいいかも、と思ってしまった。だがちらりと見えた値札を見て、すぐに首を振り、見なかったことにしようと自己暗示をしようとした。しかしやっぱり気になってしまってもう一度見て、現実をみて首を振り……とたっぷりと20分は悩んだ。そばを通りかかった人にはかなり怪しまれたことは触れないでおこう。

悩みに悩んだ末、男爵は自分の財布と相談することで決めることにした。
財布の中に買えるだけの金額があったら買う。無理だったらすっぱりあきらめる。

心の奥底で後者であることをこっそり願い、男爵は財布を開いた。








「……あの、すみません。あそこのショーウィンドーにある…………」









完敗だった。










男爵が財布を空にして帰宅するころには、空はすっかり星空になっていた。
おそるおそる家のドアをくぐると、そこにまめつはいなかった。出かけたのかと思い、謝罪の言葉を部屋でもう一度練習しようと部屋に戻ってドアを開けるとそこにまめつがいた。

またしても我を忘れて走り出そうとする己の足をなんとか床に縫い付けて部屋に入った。
床はきれいに水ぶきされてバケツも片付けられていた。自分がいつも座っている椅子にはまめつが座り、自分が放置していたスケッチブックに空き缶帽子に入った「かにぱん」を描いていた。ちょっと上手いと思ってしまったのはここだけの秘密だ。
彼女はあれからちゃんと風呂に入ったらしく、絵の具まみれの服からちゃんと着替えていた。……ちょっと待て、それは自分の服だ。明日でかけるときに着ようと思って珍しくアイロンまでかけた服だ。だがそれを指摘する前にやることがある。


「あー、……ただいま。まめつ」

帰ってきたことには気づいていたらしいまめつは、男爵が口を開いたことでようやく振り返った。

「おかえり、男爵。遅かったね」

「あの……えと……朝は、すまなかった」

「わかればよろしい」

下手な言い訳をせずにした謝罪を、まめつはすんなりと受け取ってくれた。よし、もう一息だ。自分の財布の全てをかけたこれを渡して今日の夕飯は獲得してみせる。

「まめつ」

「なーに?」

「これ。朝のお詫びの品だ。受け取ってくれ」


謝罪の気持ちを盛大にこめて、献上品のごとく床に正座した状態で大きな紙袋を彼女に差し出した。
彼女はわざとらしい自分の行動に少々あきれながらも、スケッチブックから手を離して紙袋を受け取ってくれた。


「なにこれ……服?」

「ああ」


男爵がまめつへの謝罪の品として選んだものは服だった。それも上下、ソックスと靴まで入っている。
ショーウィンドーに飾られていたもの。それはトルソーなマネキンに着せられていた服。男爵はそれを見たとたん、うっかり彼女とマネキンに着せられた服を脳内で合成してしまった。そしてそれが、思い切り似合っていた。
一式であるし、ちらりと見えた値札は見た目に反して可愛くない数値をたたき出していたけれども、彼はそれを見た瞬間動けなくなってしまったのだった。更に財布の中はこれを買えとでも言いたいかのようにぴったりな値段が残されていた。

まめつは取り出した服を男爵の部屋にある大きな鏡(自分の体を参考に絵を描くときに使うもの)の前に立って自分にあててみていた。男爵が自分の脳内で想像したそのままで満足していると、まめつは服をあてたままくるりと振り返って微笑んだ。



「ありがとう!×××××!」



普段は言われると恥ずかしい自分の本名を言われても、満足してくれたらしい彼女の満面の笑顔を見た男爵は、今回ばかりは許してやろう、と思った。









おわり。







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親愛なるおつまみ様へ。

2007.10.29 春詩朝餉

H19.10
はるぽんから頂いた、まめつ&男爵小説です。
    
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